大きな市場のような、殺風景な商店街に、夕
日がさしていた。人影はちらほらと商店の店
先に見受けられるぐらいだ。彼女たちは買い
物袋を下げて、さしたる希望もなく限りない
砂漠を放浪する人か、盲であるかのように、
熟した橙色の空気の中の街をゆらゆらと歩い
ている。
昔からこの地域に住み続けている老婆たちが、
二人分、あるいは自分一人分の夕食のお惣菜
を、昔なじみの肉屋などで買い求めているの
だ。
彼女たちは、横顔に射すような夕日を受けて
いる。色褪せた中間色のマフラーを首にぐる
ぐる巻きにし、薄い前掛けをした老婆たちが
物を買う、密やかで、緩慢な佇まい。足元か
ら伸びている細く長い影は、容易には動かな
い。
光は真横からまっすぐに来て、染み付くよう
に町中に行き渡っている。ガラスや鏡がいた
る所で反射して、キラキラと輝いていた。
その反面、沈んだ色彩がある。焼酎やワイン
が陳列された酒屋の土間に、うらぶれたマー
ケットの、野菜や果実の並べられた露台の下
に、健康サンダルが軒先からぶら下げられた、
埃っぽい靴屋の奥に。
私は商店街を一巡し、それぞれの店で買うべ
き買い物を終えて、レジ袋を提げたまま、こ
ぢんまりとした喫茶店に入った。窓際の席に
ついた。赤い、がらんとした街並みが眺めら
れる。月並みだが、まるで、幻想的な絵画の
ようだと思った。
この店は、夜はフランス料理を出すレストラ
ンになるが、まだ、間がある。この店も古い
店だが、私たちがこの街に越してきた時には、
すでに、古い店だった。
あの頃と、椅子もテーブルも、変わってない。
窓の木枠のペンキも、ところどころ剥げてい
る。窓の上から、窓枠を囲むようにして、埃
焼けした造花の蔦が垂れ下がっている。
私は一杯のワインを頼んだ。白だ。赤は、私
には重い。
いつも私はこの店で、自分の楽しみのために、
軽めの白ワインを飲む。一片の愉しみもない
日常なんて、とても耐えられない。
酩酊する楽しさを教えてくれたのは、旦那だ
った。こどもが産まれる以前は、旦那と一緒
に、ここにフランス料理を食べに来た。気楽
な居酒屋のように、パテを肴にワインを飲ん
だ。
今は旦那は単身赴任で遠くに行ってるし、家
にいるこどもを連れてきたら、こどもに気を
つかって、私一人の楽しみが奪われる。
異様なほど若作りをしている、幼女のような
店の奥さんが、お愛想を言いにきたりするこ
ともある。けれど、毎日、一人でお酒を飲み
に来ている女客のことなど、どう思っている
のか知れたもんじゃない。でもいい。私は知
らないふりをする。
ほろ酔いになるまでグラスを重ねて、店を出
た。
夕日がじりじりと沈んで行くにつれて、冷た
い風が吹いてきたようだった。頭の芯は暖か
く痺れているが、身体が北風の寒さにかじか
んだ。
居並ぶ商店の屋根の上の空は、暗から明へ層
をなして、その底はゼリーのように透明に赤
黒く染まっていた。ちょうど、カシスゼリー
のような色だった。
ふいに、お腹も空いてないのに、焼きイモが
食べたくなった。
焼きイモ。
焼きイモの、皮の焦げた香ばしい匂いと、焼
きイモを包む古新聞の乾燥した紙の匂いが、
冷たい鼻の奥に蘇った。
私は、その郷愁を誘う記憶に、胸が締め付け
られるような気がした。
私はきっと、こどもの頃、あんな夕焼け空の
あった後、こんな身をちぎられるような風に
吹かれながら、焼きイモを食べたことがある
のだ。
それは、いつのことだろう?
この純粋な幸福感、記憶の遥かな遠さでは、
まだ、十歳にもならない頃だろうか。その焼
きイモは、たぶん、父か母が買ってくれたの
だろう。
焼きイモを手渡される時の、父のものか母の
ものかわからない、手のひらの感触が、蘇る
気がした。
突然に訪れた焼きイモの記憶が端をなして、
商店街の道路の真ん中に立ち尽くしていた私
は、かつて確かにに経験したことのある両親
の愛情に包まれた。
私は、その瞬間、距離を越え、あの地平線に
横たわる夕闇をくぐって、私の生まれた家に
帰って、父と母に、おかえり、待ってたよ、
いつも待ってるよ、と、腕を広げて迎えて欲
しかった。
私はレジ袋を提げたまま、さほど遠からぬ八
百屋へ向かった。
店先に、煙突のあるドラム缶みたいな物が置
かれている。私は前に、その中で焼かれてい
る焼きイモを買ったことがあった。
「おじさん、焼きイモ、ください」
よれよれのジャンパーを着込んだ店のあるじ
は、いつものように、こちらを見ずに「イヨ
ー」と言った。
手に軍手をはめて、手慣れた様子で、そのド
ラム缶みたいな物の蓋を開けた。あるじは、
中から手頃なイモを探り出すと、昔ながらに
新聞紙でくるんだ。そしてやる気もなさそう
にそっぽを向いて、「アイヨー」と私に渡し
た。
イモを胸に抱いて、私は帰る道を振り返った。
薄暗い空の中に、信号機の赤信号が、光が滴
る果実のように、じんわりと点っている。あ
の交差点を越えると、住宅街に伸びる細い道
になる。私はこどもの待つ家に帰って、料理
を作り食べさせ、こどもをお風呂にいれて、
寝かしつけたりして、そんな「主婦」をしな
くてはならない。
私がごく幼かった頃は、私は両親に大切にさ
れていて、家庭の中にいる毎日が、ピクニッ
クのように愉快だったような覚えがあるが、
私が中学校に入学する頃から、何故だかわか
らないが、両親は私から興味をなくしたよう
だった。
母は夜の外出が増え、真夜中に酔っ払って帰
ってくることもよくあった。私と父が、母が
作っていった夕食の冷えた焼肉を食べていた
時、私が不味そうに食べていたからといって、
父に醤油さしを顔面に投げつけられたことも
あった。
父はいつも、いらいらと怒りを鬱積させてい
たが、二人の間に何があったか知らないが、
父は不満を、母に強くぶつけることができな
かった。
私は、両親が仲睦まじく暮らしていて、そん
な両親とうまくやっていきたいという願望が
あったが、向こうはそれを望んでいなかった。
険悪な雰囲気の家庭から押し出されるように
して、私は結婚して家を出てしまった。もち
ろん、私は旦那のことが好きだが、旦那にと
っては、結婚を考えた時、たまたま隣にいた
のが私だったというだけなのだ。
あたりがますます暗くなってゆく。急ぎ足で
通り過ぎて行く若い人とぶつかりそうになっ
てよろめいた。彼は、振り返りもせず遠ざか
って行った。私はしばらく,彼の後ろ姿を眼
で追っていた。
焼きイモが、手の中で、ゆっくり冷たくなっ
ていく。
この郷愁を振り捨てたくなかった。私は今、
どこに帰りたいのだろう。
私は無意識に空を仰いだ。星の瞬きが鋭いこ
とに気付いて、空を見上げたことに気付いた。
そこに憧れる場所はなく、よく晴れた夜空で、
雲がたなびいていた。
この時、夜空の高みに穴が空き、巨きな純白
の翼を持った者がそこから舞い下りて来て、
私の喉元に杳い大鎌をあてがい、
「今からおまえを開放してやる。好きな所へ
行くがいい」
と、言われたら。
私はいったい、どこに行きたいと言えばいい
のだろう?
自分が生まれた家でもなく、次に新しく作り
上げた家族と共に住んでいる家でもない。
私は自分が愛される場所を知らない。私は、
何でも貪欲に求めるこどものように、誰かに
愛され、愛しいたいのだ。
そう渇望しつつも、私は、私を庇ってくれる
者のいない生活に深く埋没し、終わらない平
坦な悪戦苦闘を続けなければならない。私は
家族が崩れないように、旦那の留守を守ろう
とするし、こどもをうまく成長させようとす
るのだ。流れに乗ってしまったのだから、止
めることはできない。
そういうことでした。
それでも、そうして、いつか……どこか安ら
げる場所に辿り着くのかもしれない。ある日
の、幻惑されるほど日差しの眩しい夕刻、私
はどこかへ歩いて行く。どこに向かっている
かは知らない。歩き続けるうちに、いつしか
自分というものがなくなり、愛情に満ちた懐
かしい場所が開け、私の全てを受け入れてく
れるかもしれない。
なんて。
私は、一人で笑ってみた。
私は歩き出して、考えることを止めた。私は
あの交差点を越えて、寒さで澄みきった闇に
沈む私たち家族の家へ帰っていく。




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